経済コラム、経営随想などを連載執筆しはじめてから丁度10年になった。各方面からのご要望もあって、今までの主だったもの、連載ものばかりを集め、名の愼三から「しんぞう随筆」として、印刷出版する事にした。
元来「筆不精」
旧姓中学から新制高校と新聞部に顔を出し、大学の時、新聞部長をやった。阪急電鉄の創立者小林一三氏にインタビューをし、紙面を飾ったことも覚えている。又、朝日新聞学芸欄に「ニュース映画評」が載ったのが、1950年で、一般紙に掲載された最初の原稿だった。
教鞭をとっていた時に学校新聞の顧問を勤め、太陽鉄工へ来てからは、ほぼ4半世紀の間、社内報の発行責任者であった。爾来、大阪府経営合理化協会の編集 委員会(現在の情報融合化委員会)、東淀川工業協会の広報委員会、日本油空圧工業会の普及促進部会などのお世話をさせてもらい、立場上いろいろの文をもの した。又、読売新聞をはじめ、日本工業新聞の経済人「随想」、日本経済新聞の「交友抄」、産経新聞の「行革」、雑誌では「経済界」「致知」、「創意とくふ う」、「人と経営」「葦」など単発で、コラムから特別寄稿の論文まで何十編を書いた。
86年に出された雑誌「ロボティスト」は名付け親の立場からも度々筆を執った。しかし生来の筆不精で、人から頼まれて書く以外、自分で何かに応募するなど、今までに一度もなかった。
「書くこと」と「しゃべること」
八一年六月末、太陽鉄工の創業者であり、父の北浦冨太郎会長が亡くなった。立志伝中の偉大なおやじの書き残した「なにくそ人生」も出版できた。その直後 毎日新聞社から月一回の経済コラムの執筆依頼があった。気楽に引き受けたものの、八〇〇字のコラムに悪戦苦闘であった。しかし父への追悼文のつもりで、そ しておやじが言い表せなかったことへの伝承義務を果たそうと…とガンバッた。
「中小企業 流通」コラムの三回目を書き終わったころから、海外出張が多く、会社の業務に忙殺され、ついに当時の経済部長(現論説委員)秋山哲氏に執筆辞退のため、毎日新聞社に出向いた。
秋山部長は話を聞いた後、机の上のはがきのたば、約二百枚程をもって「これ全部が北浦さん宛じゃないが、大部分の読者が、”感銘した”など意見を寄せて おられる。新聞社へはがきを書く人は意見をもっている人の百人に一人位だと、統計的に見ているので、これは二万人程の反響ですよ…」と諭され、おだてに弱 い私は奮起一番「経営コラム」が終結するまで三十二回連載を続けた。
最近四・五年は毎月連載三本プラス不定期もの一~二本で、ほぼ毎週の日曜日の夜十時から十二時の二時間を執筆に当てることにしている。ウィークデーは帰りが遅く、又出張も多く、気が散って書けないものである。
月に一~二度講演を引き受けるが二時間のおしゃべりはボリュームの割にはあまり気にならず、気楽にマイペースでやれる。書くことは後に記録が残ることもあり、一言一句慎重を期している。
問題意識 メモ魔
八六年四月から二年間、NHKの第一放送「関西ビジネス情報」(毎週木曜日、午前六時四十三分~五十分)のキャスターを五十一回勤めた。いろんな方の推 挙があって、「七分間の声のコラム」をやらしてもらった。生放送とあって少しはプレッシャーを感じたが、NHKから装置を持ち込み、自宅からの放送とあっ て意外とリラックスして、関西の経済特質を色々なな切り口で語ることができた。
こんなことで何かと常に問題意識をもつようになり、講演や人の話を聞いたり、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのマスメディアにいたるまで、正確なデータ や話題の収集に努め「メモは行動の入り口」の言葉どおり、「メモ魔」になっていた。放電ばかりでなく、充電に注意するようになり、「話し上手より聞き上 手」になった。
言葉の新鮮さ
大学の時に写真部にいたせいか、今もってカメラを手放さない。特に年五~六回の海外出張には、何かと「物語らせる」スナップ写真を心掛けている。
デトロイトやパリから原稿を送り、帰りの機内で新聞掲載の自分のコラムを手にした時など特別新鮮な感懐だった。又、テーマ、見出しなどには特に気をつ かった。新語、造語、合成語や、珍語、流行語など時代、季節感あふれた新鮮な言葉を使うように心がけた。
関西大学の大西昭学長から「北浦さんのコラムは シャープで、新鮮、よどみなく読むことができる」とおほめをいただき、
日本HR協会の山田宏理事長からは、「文中に問題提起が山ほどある。私なら四~五回 にネタを分けて書きます」と欲張った内容にご批判いただいたりした。
「おだて」そして「励まし」
随筆を連載して十年、その間に「毎回あなたの経営随想を読み上げ、その後自分の意見をいって、朝礼を続けている」とお電話くださる経営者。コラムをハガ キ大に縮小コピーしてはがきに張付け、そこにご意見を記して、出張先から送っていただく得意先、「署員の研修にコピーして教材として使ってもよろしいか」 と警察署長。お誉め、おだて、励まし…いろいろお電話、お手紙頂戴した。
本業の会社経営は多忙を極める。一本たりともこちらから申し出た出稿はない。皆様方からの依頼である。曰く「原稿(仕事)は忙しい人に頼め…」とおだてられ、ついその気になる。しかし、新聞社などの業界内の諺に「原稿より健康」というのもある。心すべきである。
私は評論家ではない。いうだけでなく実行せねばならない。「有限実行」である。だからこれからもコラムの限定枠内で、時代のトレンドを見極め、そして起承転結の辛口の、自己の目標、自分への戒め、自らの「心のこやし」となる言葉を書き綴ってゆきたいのである。
最後に太陽ウィニング株式会社の本社・工場のある岡山は桃の名産地、そして伝説「桃太郎」の国である。真心の犬、技術のサル、そして情報の雉に支えられ て、大いに桃太郎精神を発揮してゆきたい。そんな意図を画家の正明義行先生が挿絵として、地元の熊山、吉井川、瀬戸内海、備前焼の窯などと共に、この随筆 集の表紙・中扉などを飾っていただいた。誌面をかりてお礼を申し上げたい。
一九九一年十一月
北 浦 愼 三 (北浦慎三・眞三)