2009年3月7日土曜日

「なにくそ」の気迫、執念そして和

毎日新聞 1981年(昭和56年)7月13日(月曜日)

中小企業流通 「なにくそ」の気迫、執念そして和

 「なにくそ」-言葉としてはあまり上品なものではない。しかし、何が何でもがんばり抜くぞといった気迫が感じられる。先月亡くなった太陽鉄工の創業者会長の大変好きな言葉であった。「なにくそ」。この言葉に裏の”ガンバリズム”を感じ、創業者の遺稿集を「なにくそ人生」と名づけた。

 辛抱とは耐え忍ぶことである。現代の若者気質は「苦労は買ってでもせよ」といった苦業思想が無く、せつな的快楽思想が中心である。また物事を判断するのに長期的、多角的、対極的見方を欠き、感情的、短絡的判断に陥りやすい。海外での一連の留学生殺人事件をみても、この辛抱の無さがうかがえる。

 ビジネス社会に必要なものは「ひつこさ」ではないか。あまりにもものわかりのよすぎる管理、経営層が多すぎる。土光敏夫さん(臨時行政調査会会長)の言葉に「わかっていてやらないのは、わかっていないのと同じだ。やっても成果がでないのは、やらないのと同じだ」というのがある。成果主義に徹し、やり直す執念が欲しいものだ。対話を交わす相手は大勢である。意外と自分自身に飽きが来て、繰り返し言い続け、やり続ける勇気がしぼんでしまっているのである。

 また「やるべきことが決まったならば、執念をもって、とことん押しつめよ。問題は能力の限界ではなく執念の欠如である」というくだりがある。知・徳・体・意の中で一番修練のいるのがこの意思力、執念である。あらゆる外的要因、内的要因を克服して刻苦勉励しなければならない。「志なきは人に非ず」といわれる。意思力を強化するには自分にマッチしたチェックポイントを持つべきである。

 しかし執念とともに「和」をも強調したい。和としては共同して仕事を進めたり、調整を図ることだけではない。お互いに譲りあい、必要とあれば自我を折ることをも意味している。企業全体の目標達成のためには、個人的利害をさしひかれてでも「なにくそ」とがんばらなければならないのである。(慎三)

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