1982年(昭和57年)4月12日
国際交流の実をあげるために
海外との往来が頻繁である。先日、中国の視察団が工場見学に来られた。通訳が私のスピーチを十分訳せず、「本当の日本語で話してくれ」とクレームがついた。「エレメカ時代のニューテクノロジーの追求には、真の顧客のマーケティングニーズを知ることが肝要で…」と、得意満面でやっていたが、横文字を日常会話にこんなにたくさん使っていたのか、と改めて考えさせられた。いまさら的確な、いい和文が見当たらず、純粋の日本語だけの表現では当意即妙の言い回しにはならないものである。
昔からオペ(手術)とかカルテのように医者はドイツ語を使い、アレグロ(速く)ピッチカート(はじく)などの音楽用語はイタリア語で、プレタポルテ(高級既製服)、オートクチュール(あつらえ洋装店)のようにファッションときたらフランス語と決まっている。何かしら韻律を感じさせるから不思議である。
ジャパニーズ・イングリッシュ(和製英語)といわれるものにメカトロニクス(電子機械)、ナイター(英語ではナイトゲーム)、ノンズロ(チップイン)など枚挙にいとまがない。その逆で「根回し」「稟(りん)議書」「行政指導」などがアメリカの現代用語辞典に載っているのには全く驚きである。
古くは日本、オランダの交流の中で、シャボン、カステラが日本語化し、カタナ(刀)、ボンゾ(坊主)、カッパ(合羽)がオランダ語として定着している。
これからは民族固有の言語文化だけに閉じこもっている時代ではない。エチケット、レイアウト、ドライバーなど直訳語はあるが、原語での表現とはニュアンスの差が大いにある。日本語そのものを大切にすると共に、より豊富な語彙(い)が幅広い表現の可能性をつけてくれるものである。
人の往来により道が出来る。そこに理解が深まり、取引が始まる。固有の持ち味に相互交流による゛異花受精゛の花をそえてこそ、真の国際交流の実と言えよう。
(慎三)
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